第344号  (2006年02月27日 国会議員号)

増田俊男事務局 http://www.chokugen.com
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日本に二大政党制は必要か

一国の政治形態を考える時、その国の文化に立脚した精神を考慮するのは当然だろう。

歴史文化を考慮すれば日本のような農耕民族と西洋の狩猟民族とでは生活様式が全く異なることがわかる。生活が立脚する基盤が違うのに同じ政治形態を採るのは不自然ではないか。鹿狩りと稲作を生活の糧にするのでは自ずと生活様式が変わる。一人一人が野で獲物を競うのと、全員参加の稲作型共同生活では大違い。正に競争社会と和の社会の違いである。競争社会の西洋で二大政党制が定着しているのは当然といえる。

では日本のような和が精神基盤の共同体社会にはたして二大政党制はうまく機能するだろうか。狩猟が獲物を求めて「場を移動する」のに比して農耕は同じ「場に定着する」。しかし狩猟民族も農耕民族も世界という場で競争してきたし、今後も競争し続けるだろう。世界は近年平等な共同生活を基盤とした共産主義的政治形態が、競争原理を基盤とした自由主義的政治形態に勝てないことを知った。では稲を育てる精神を基盤とした社会が狩猟の精神を基盤とした競争社会に対してどうしたら整合できるのだろうか。ここに日本に適した政治形態を考える原点がある。

もう一度狩猟と稲作に立ち返りその主体を考えて見よう。狩猟の競争は「個の競争」であり、競争の単位は「個人」である。ところが一方稲作の参加単位は家族であり、稲作を競うとすれば競争単位は家族である。また狩猟の成功は個人の能力にかかっているが、稲作の成功は家族の団結にかかっている。狩猟に於いて他人は競争相手であり、あるときは敵でさえあるが、稲作に於いて一人一人の個は無く、競争相手は家族である。個人中心の競争原理の社会では自由の精神が求められるが、家族中心の共同社会では滅私が求められる。

自由の社会が場を「求める」のに対して滅私の社会では場は「与えられる」もの。稲作生活では参加単位の家族内で競わず談合し、他の稲作家族と米の出来を競う。米の出来が天候〔自然〕に大きく左右されるだけに家族にとって「祈り」が欠かせない。

ところで私は子供の頃祖父母の家に天皇・皇后の写真が飾られていたのを今でも憶えている。祖父母はいつも天皇・皇后の写真に向かって「ありがとうございます」と感謝のお祈りをささげていた。そして私にお祈りをしないとバチがあたるよと言って私のいがぐり頭を押さえて礼をさせた。何がありがたいのと聞く私に「天皇・皇后さまは今年もいいお米ができますようにとわしらのために祈って下さるからだ」と言った。だから私は子供の頃、「天皇・皇后陛下さまはありがたい神様なのだ」と思っていた。

どこの家にも天皇陛下と皇后陛下の写真があった。稲作はいいお米を作る事であり、いいお米が与えられるように祈ることであったからだ。米作りを競う家族に共通したものが祈りであり、そしてその祈りの先に天皇があったのだ。いま子供のころを思い出すとそんな風に思えてならない。日本では組閣され新内閣発足に際しては、例え真夜中でも天皇の承認無しに政治が機能することはない。形の上では日本は立派な天皇一家の国なのだ。

政党とは政策集団であり、政策を競うための存在である。日本の野党民主党の政策は与党自民党と大差がない場合が多い。民主党は自民党と同じ政策にむしろ無理に違いを作ろうとさえしている。今なおご先祖様のように自然に対する感謝の念を忘れずに、天皇一家として生きて行こうとするなら、国民のための政策を立案、立法、施行することで国会議員全員は、稲作のように家族の一員として共同して協力すべきであって、決して内部対立すべきではない。だから争うための野党など要らない。

もう一度日本における国民信託とは何かを、かつての家長意識の原点に返って考え直してみてはどうだろうか。民族、国家の家長として天皇を戴く日本に競争と対立の精神を基盤とした二大政党制は整合しない。最大野党民主党が自滅に向かうのを機会に日本の政治のあり方を考え直してみるのもいいのではないか。民主党に潰れ甲斐を与えるためにも。


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発信者 : 増田俊男
(時事評論家、国際金融スペシャリスト)