集団的自衛権 * 松岡農林水産大臣の死を心から御悼みしたい。国民のために寝る間も惜しみ奮闘している国会議員が領収書管理に専念するようになったらどうなるのだろうか。5万円以下は領収書不要。では国会議員の信用は最高5万円なのか。5万円とは一体何を表しているのか。「足を引っ張ることの好きな国である」。国会議員の足を天まで持ち上げようとは思わないのだろうか。自分の生活を、社会を、国を任せたのなら、国会議員の仕事だけに目を向け、他は忘れようではないか。もっと国会議員が我々のために働きやすいようにしてあげたいものだ。松岡大臣もそう思っていたに違いない。大臣のご冥福をお祈りする。 さて、今回は集団的自衛権行使について私の「正論」を述べることにした。 「集団的自衛権行使」について各党の見解と主張が分かれている。共通しているのは従来の内閣法制局の憲法解釈(集団的自衛権行使は違憲)を踏襲する点である。 その主な理由は、1)解釈の変更は憲法の権威に関わる 2)解釈を変更するのなら、憲法自体を改正すべき 3)現行憲法の範囲内でかつ現行解釈のままで出来ることを考えるべき――の3点である。 1) は論理的な「間違い」。時の内閣が解釈を変更しても、解釈される憲法は厳然として存在するため、時の内閣の威信に関わることはあっても内閣の憲法解釈が憲法の権威に関わることはない。 2) 現行憲法の違憲解釈を歴代の内閣が継承してきたが、今後、ある内閣が解釈を変えることはあり得る。その度に憲法改正するというのか。憲法は「本体」、解釈は憲法の「派生」である。(憲法なくして解釈なし)。「派生が本体を支配することはない」!集団的自衛権行使のための憲法改正論は「間違い」。 3) 現行解釈のままなら違憲解釈。違憲下で合憲な方法を見出そうというのは「ゴマカシ」である。 このように、現在繰り広げられている日本での集団的自衛権行使論議は総てナンセンスと言わざるを得ない。そこで、僭越ながら私なりの事実に基づいた「正論」を述べることにする。 私の日米安保改正論 日本の国民の生命と財産に最も重要な安全は、「日米安全保障条約」(日米安保)で保障されている。また日本の自衛隊の現在と将来(10年単位)の防衛指針、自衛隊防衛大綱で自衛隊は米軍と防衛戦略を共有することが決められている。以上のことから、現在アメリカは日本の唯一の同盟国であり、アメリカ以外の同盟国は存在しない。 日米安保は1951年9月8日サンフランシスコで日米両国が署名、後に両国で批准されたが、1960年に改正され今日に至っている。国際条約である以上、当然そこには期限がある。日米安保の場合、いずれの締約国も、他方の締約国に対し条約を終了させる意思を通告することができ、条約は通告が行われた一年後に終了する、となっている。 現行日米安保は今日まで自動更新しているが、日米両国は何時でも破棄、または終了させることが出来る。日米同盟関係といえども永遠ではない。期限の無い(永遠の)憲法にアメリカを対象とした期限のある集団的自衛権のための憲法改正は妥当性を欠く。日米安保に基づくアメリカを対象とした集団的自衛権行使は、日米安保条約の範囲内で解決すべき問題である。 集団的自衛権行使の必要性の論議は、現在片務性(アメリカにのみ日本の防衛責任)である日米安保の是非論でもある。つまり、日米安保の片務性を双務性にすべきかどうかの議論なのである。今日になって集団的自衛権行使の是非が盛んに論議されるようになった背景には、元来、日米安保を片務性にしたアメリカが双務性を求めるようになってきた事実もある。今日の世界の安全状況の変化と近隣諸国間での軍事バランス等から、もし日本の国民が同盟国アメリカを対象にした集団的自衛権行使が日本の安全上必要であると判断するのなら、日米安保を片務性から双務性に改正すべきである。日米安保を双務性に改正すること、すなわち集団的自衛権行使を日米安保改正により条約化することが現行憲法の専守防衛の趣旨に反する、とする議論が起きるだろう。 戦略国家アメリカは、こうした事態が日本の将来に起こることを想定して日本国憲法の最高法規(97条2項)に「国際条約の遵守」を加えている。双務条約に改正された日米安保(国際条約)は、いかなる国会決議、行政命令、詔勅を超越し、犯されることがないのである。最高法規が憲法第九条(専守防衛)を超越することは言うまでもない。国民が集団的自衛権行使を可能にしたければ、日米安保改正以外の正論はない。集団的自衛権行使を可能にするための憲法改正は不要。よって、そのために急いで現行憲法を改正する必要はない。「憲法を時代の変化によって変えるのでなく、安全保障体制(日米安保)を時代の変化に合わせて改正すべきなのである」。アメリカに求められる前に、日本からアメリカに日米安保改正を提案すべきである。
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