不平等条約の歴史は繰り返す
1858年(安政5年)4隻の軍艦の圧力で日米修好通商条約が結ばれた。これが世に言う「安政の不平等条約」である。不平等は二点、治外法権と自主権なき関税条約である。自主独立近代国家を目指す明治政府指導者達はこの不平等条約解除に全力を傾けなくてはならなかった。岩倉具視(明治4年:1871)、寺島宗則(1878)、井上馨(1887)、大熊重信(1889)、青木周蔵(1891)、陸奥宗光(1894)が交渉に交渉を重ね、ついに小村寿太郎(1911)によって前記二点は完全に解消、新たに相互平等、対等な日米通商航海条約が締結されたのである。実に開国以来50年の歳月を費やしたことになる。小村の成功の背景にはいち早く近代的軍事装備をして日清、日露戦争に勝利し、まがりなりにも西洋の列強と肩を並べた実績があった。
日本を短期間で近代国家にまでにした明治の指導者の理想は、西洋諸国との連携を基盤にして日本をアジアの大国にすることであった。
この理想を踏みにじり、第二次大戦で日本を破滅に導いたのが東条英機を代表とした軍部、軍閥であった。昭和20年9月2日、ミズリー号でポツダム宣言受諾の調印を行ってからサンフランシスコで講和条約に調印した昭和26年9月8日までの6年間、日本はGHQの占領下に置かれた。
この間日本はGHQ民生局作成の新憲法を受け入れ、また教育基本法、刑事訴訟法などがマッカーサーの名の下に施行された。この占領時代日本を主導したのは吉田茂であった。吉田の理想は明治の指導者の理想を継承し、欧米と同盟または提携して近代国家日本を再生することであった。吉田はマッカーサー、GHQを自らの政治に巧みに活用、利用しながら講和条約締結までこぎつけたといえる。
第二の日米不平等条約
吉田は講和条約調印後、日米安全保障条約調印に望んだが、そのいわば晴れの舞台で随行した子飼いの池田勇人に、「将来この条約が問題になった時に備えて、君は調印しておかないほうがいい。これは私の一存で決めたことにしておきたい」と述べている。これは講和条約と対になっている日米安保には問題があることを吉田は百も承知していたことを意味する。日米安保の問題は本誌で何度も解説してきた通りである。要するに日本の行政管区内における米軍の治外法権と軍事行動の自由である。待ちに待った講和条約とは日本の独立と対日軍事支配の交換条約であった。講和条約締結時の吉田率いる自由党の支持率は58パーセントにも登っていた(朝日新聞昭和26年9月25日世論調査)。しかも自由党は衆議院で285議席を有し、過半数を66議席も上回っていた。
日本独立の国際的儀式であるサンフランシスコ講和条約調印が行われたのに、吉田は何故独立日本スタートの儀式を行わなかったのだろうか。儀式、すなわち独立後の日本の行く道を問う国民投票である。占領下の憲法、特に第9条(非戦力条項)はこのままでいいのか、日本の伝統的家族制度無視の教育制度はこれでいいのか、暴力(ペンの暴力も含む)を容認する言論の自由はこれでいいのか、占領下の憲法を初めとした諸制度を独立後も継承していいのか。これを国民に聞くべきではなかったのか。絶大な吉田人気と国会ではるかに過半数を超える勢力を持っていたのだから国民審判を恐れることはなかったはずである。結果はアメリカの対日治外法権と非軍事、戦争放棄憲法を置き去りにして、吉田学校の優等生(池田勇人や佐藤栄作)に保守本道という名の戦後政治を引きずらせることになったのである。ここに日本はまたもや日米安保という「昭和の不平等条約」と憲法という超難題を抱えることになったのである。
鳩山一郎
鳩山一郎は第二次大戦敗戦後の昭和20年(1945)10月日本自由党を創立総裁に就任したが、組閣直前(吉田茂の工作?)で公職追放となり内閣を吉田に譲った。昭和26年(1951)追放解除後自由党に復帰して吉田と主導権を争い昭和28年(1953)分党、翌年改進党と合同で日本民主党を結成総裁になる。同年12月吉田内閣が造船疑獄発覚で退陣した後、念願の政権の座に着き、以後レッドパージなど徹底した吉田の反共、アメリカ一辺倒路線を変更して憲法改正、日本の再軍備に取り組むと同時に中国、旧ソ連に接近、日ソ共同宣言(1956年10月19日調印、12月12日批准)を締結し、同年12月に国連加盟を果たしたのを期に政界から引退した。後に政界は自由党、民主党の保守合同体制となり、憲法改正は成らず、現行憲法、日米安保堅持という吉田が残した保守本流の基盤継承で今日に至っている。
昭和の不平等条約(日米安保)と占領下憲法
日米安保は「日本の安全の要」、現行憲法は「平和憲法」と広く認識されている。しかし日米安保は講和条約という日本の独立と引き換えに課せられた不平等条約(治外法権と米軍軍事活動の自由)であり、憲法はGHQの対日2大占領政策、民主化と非軍事化の一環であり、そのことは吉田自身が「将来の遺恨」として認めている通りの事実である。1950年朝鮮戦争が勃発し、中国軍の北朝鮮支援で連合軍の敗退が続くとアメリカは日本に再軍備を求めてきた。自ら日本に与えた憲法9条無視の要求であったから日本にしてみれば9条改正の絶好のチャンスであった。しかし再軍備による旧軍人の復権を恐れた吉田は頑としてアメリカの要求を拒否、日本を米軍の軍事支配下に置く日米安保の道を選んだのである。
民主党は昭和の不平等条約と憲法にどう取り組むのか
安政の不平等条約の解消には50年の歳月を要したが、本当の決め手は歳月ではなく日清、日露戦争の勝利であった。昭和の不平等条約と憲法から解放されるにはどうしたらいいのだろうか。対米戦争があり得ない現実の中で確かなことの第一は、アメリカの弱体を待つ、第二は中国と協力して積極的にアメリカを弱体化することだろう。アメリカの弱体=日本の解放という基本路線の追求以外に不平等条約(日米安保)と戦力否定憲法から逃れることは出来ないだろう。
自民党は崩壊した!
国民の大半が自民党の復活を望んでいるが将来自民復活は無理だろう。今の自民党に保守本道の時代が終わり、日本再生の流れに時代が変わりつつあるという認識は無い。首班指名で白紙が駄目ならこうしてはどうかなど、毎日何を考え、何をしているのだろうか。今回の総選挙で自民党は崩壊し、最早将来はないだろう。真剣に日本のために尽くしたいと望む自民党議員は当然小沢の門を叩くだろうし、またそうすべきだろう。来年の参院選後は民主党長期政権が続くことになるだろう。これでやっと鳩山民主党に、吉田茂もまた鳩山一郎をもってしても果たせなかった昭和の不平等を解消して、明治時代の指導者が理想としたように、欧米と提携し、今や中国と歩調を合わせながら日本をアジアの大国、自主独立国家にするチャンスが到来した。
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