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平成28年度一覧
1100号(2016年8月24日号) 国会議員号
北方領土問題の真実

北方領土問題を正しく(客観的に)知るには、連合国首脳(英首相チャーチル、米大統領ルーズベルト、ソ連スターリン)が戦後処理を決めたヤルタ協定(1945年2月4‐11日)、サンフランシスコ講和条約(1951年9月8日)と日ソ共同宣言(1956年10月19日)を知る必要がある。
英国大使吉田茂(戦後首相就任)が子飼いの部下奥村勝蔵(在ワシントンDC一等書記官、戦後天皇とマッカーサーの通訳、外務次官、スイス大使に栄転)に命じて対米宣戦布告書の米国務省宛通達を故意に遅らせた為に真珠湾攻撃(1941年12月8日)は奇襲攻撃になり米国論を対日戦争に煽る(米国の為の)大役を果たした。
真珠湾攻撃で日米開戦となった翌日(12月9日)駐米ソ連大使マクシム・リトヴィノフにハル国務長官とルーズベルト大統領は対日宣戦布告をするよう要請したが、ソ連のモロトフ外相から日ソ中立条約の制約から不可能との通知があった。その10日後スターリンから英国のイ―デン外相に将来対日戦争に参加する旨連絡があった。その後1943年10月での連合国外相会議でスターリンは連合国の対独勝利後2‐3か月後に日ソ中立条約を破棄して対日宣戦布告をすると表明した。ドイツは1945年5月8日に無条件降伏、ソ連は1945年8月8日に対日宣戦布告、満州に侵攻、千島列島を占領した。
1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約前日本は千島列島中歯舞、色丹は北海道の一部だから千島列島から外すようアメリカに要請したが、ダレス特使はロシアの対日宣戦の条件だから歯舞、色丹、択捉、国後の四島を含む千島列島のソ連帰属は動かせないと通告され日本は千島列島を放棄し、その後の国会でも四島を含む千島列島放棄を確認した。
その後米ソ冷戦が激化しソ連は米同盟国日本を取り込む必要から1955年日本に日本が欲しがる歯舞、色丹を返還し日ロ平和条約を締結したいと申し込んできた。そこで外務省は平和条約締結交渉をソ連外務省と始めたが米ダレス国務長官が重光外相に、「もし日本が国後、択捉を諦めて歯舞、色丹の二島だけで平和条約を結ぶなら米国は沖縄を返還しない」と言われたため日本はソ連に4島同時返還なしでは平和条約は結べないとソ連の申し出を断った。日本の請求はもとより歯舞、色丹だけであり、サンフランシスコ講和条約の時点では四島放棄を決めていたのにアメリカの都合で四島が北方領土になった。アメリカの意図は明らかで日本に決してソ連が認めない四島返還要求を求めさせ、肝心な平和条約を後回しにして日ソ関係を戦勝国と敗戦国の関係のままにしておくことで日本の対米従属強化をはかったのである。仕方がないので日本は1956年10月19日、平和条約が締結された時は歯舞、色丹を返還する内容の日ソ共同宣言を締結したのである。あまり経済的価値の無い四島返還を求め続けるより先ず二島返還で平和条約を締結、北海道とサハリン(樺太)との経済開発やソ連北東の共同資源開発など進めたほうが両国の国益だとする考え(鈴木宗男)があったが、米国国務省出先機関同様の外務官僚がことごとく握りつぶしてきた。総務省のビルの壁に右翼団体のスローガン「北方領土のかえる日平和の日」(北方領土が返らなければ平和条約を結ばないと言う意味)を掲げるなど、日本官僚はアメリカの意向通り国民をロシア(旧ソ連)との対立に誘導して来た。1991年ソ連が崩壊、アメリカの仮想敵国の第一が中国になり、第二がロシアになった。アメリカは安倍首相の「新しいアプローチ」(平和条約優先)で日本をロシアに接近させ、中ロを離反、中ロ同盟崩壊に誘導、同時に日中対立を煽ることで中国の対米優位を去勢、やがて日中戦争へ誘導する戦略である。プーチン大統領は欧米の対ロ経済制裁と原油価格下落による国力低下分を日本の経済協力で補い、平和条約早期締結で日米同盟にくさびを打つ戦略である。アメリカの世界覇権が衰退すると世界は権謀術数の渦となる。
それは又私の出番でもある。
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